松岡信夫さんのアトリエ訪問
何度おじゃましてもいつも同じほのぼのとした風景の、千葉県手賀沼のほとり。
ここは、松岡さんが生まれ育った京都の故郷の風景に似ているのだそうです。
カーンカーンカーン、ショワーッ、ジーッ、・・・。
鉄をたたいたり、切ったり、溶接したり、・・・いろんな激しい音が聞こえてくるアトリエ。
建築にまつわる大きな作品もあちらこちらに鎮座している。
炉に鉄のかたまりを入れ、真っ赤にジリジリと熱くなった鉄を打つ。
美しい火花が放たれるのは3〜4回のヒットのみ。
すぐに冷える鉄をまた炉に入れ、また燃え立たせる。
一回一回の打撃が、鉄を鍛え、変幻自在にカタチを変える。
火というものの在り様は、神秘的で心まで温めてくれる菩薩のようだ。
松岡さん作のウチの暖炉に火が入ると、ひとりふたり・・・、そしてワンコまで、なぜかみんながそのそばに寄ってきます。
そして何をおしゃべりするでもなく、パチパチと薪がはぜる音を感じ、ジワジワと体の芯があったまっていくのが心地よい。
昔、登り窯の火の番をしたことがあります。
覗き窓から見える窯の中は、メラメラと燃え盛っている。
神聖な空気さえ漂っている場ではあるけれど、ここでもやはり人が集って、ハートまでホカホカになった。
おだやかで丁寧で温かくてぽわ〜んとしている。
愛すべきヒトなのです。
松岡さんのペットのシュナウザーにお顔が似ていると言ったら、
私の顔がウチのフレンチブルドッグに似ているとからかわれた。
ヒジョーにビミョーだ。うれしいようでうれしくない。
強い美意識と鋭い感性が、松岡さんのクリエイティブな世界をどんどん広げる。
野の花を愛し、美しいものを追求する意欲がますます高まっていっておられることを、お会いするたび感心します。
次から次へと生み出される新しい創造が楽しみです。
朽ち果てたモノ
“ as it is ”の館内にある古い扉
16世紀スペインのもの
松岡さんのアトリエにあった
錆びた鉄板
長い長い年月を経て、朽ち果ててきたモノの存在感というものは、何者にも動じない強さがあると思います。
木や鉄や石や土やガラスや紙や布・・・、それぞれの素材が変化してきた歴史の重みを感じるのです。
木が削れてボロボロになっていたり、鉄が錆び赤茶けてザラザラになっていたり、・・・・・。
そういうたたずまいの美を実感するようになってきました。
何にも考えずにふら〜っとワンコと散歩して、季節の風を感じる。
道に落ちていた錆びたボルトを見つけ、手のひらでころがしながら家にもって帰る。
カピカピになった曲がった枝を拾って、テニスラケットのようにスイングしながら家にもって帰る。
ペンキがはげたトタンの塀の前に立ちどまり、写真を撮って家にもって帰る。
ガラクタのような宝物のような、小さな幸せを感じる古いモノ。
湯のみの貫入(ひびのようなもの)に、茶渋がしみこんでいき、なにやらよい景色になってくる。
口のところがちょっと欠けていたり、もうすぐ割れるのではないかと思うくらいのひびが入っていたり。
そういう器でお茶を飲むとほっとする。
幸か不幸か、私のガサツな扱いのため、ウチの器は結構いいアジが出るのが早い。
木、鉄、土などが、古くなり朽ちてまでもさらに魅力を増すのは、それらが無垢のホンモノだからでしょう。
日が経つにつれて汚らしくなる人工的なものとの大きな違いだと思います。
千葉にある美術館“as it is”は、それらのすばらしさを満喫できる場です。
日本の俗世間では、若いピチピチの女性がもてはやされがち(?)ですが、
それぞれの人生経験を積んで歳を重ねてきた女性が、いかに美しいか・・・。
肌のシミやシワは勲章だ!これらは、心のヒダに比例する。
寛容で誠実な懐の深い大人の女性に魅了されます。
しかしながら、今の私は、やっぱりシミやシワは・・・・・隠したい。
まだまだ人間の修行が足りなくて、内面に自信がないのです。
身のまわりの美を感じ愛でることを日々意識していったら、きっとステキなものがたくさん見えてくるでしょう。
喜怒哀楽の毎日を大切に暮らし、何にでも感動しおもしろがることを続けていきたいと思います。
そしていつか、人生の機微を敏感にとらえ、噛めば噛むほど味の出るスルメのような人間になりたい。
しかもゆる〜く気楽に自然体でいられたら・・・。
30年後、40年後の、尊い歴史を身につけた自分の姿を想像できますか?
コラム vol.9 "松岡信夫さんのアトリエ訪問" "朽ち果てたモノ"